マカレルリビングデッド
キャピキャピギャルという人種。
雇用機会均等法に護られ、バブル景気に育てられて、眩しいばかりのお嬢さんのまま、四半世紀以上キャピキャピしてる妙齢のご婦人たちが職場に居る。
職業に関係のないお話でいつでも大盛り上がりなので、できれば関わりたくないのだがいつも居る。
で、唐突にシモの話になったりする。
「こんな話もできちゃうサバサバした私」が楽しいらしく、テンションMAXで止まらなくなる。
若手男子がいてもサバサバだから平気らしい。
今日も残業中に唐突にシモのターン。
帰りてえ
帰らしてくれ
人類の残念な進化
田舎の実家にはオジサンが住んでいる。
お堅い職業の優しいご両親に育まれ、生真面目で朴訥、少し左寄りでかなりヲタク体質で、ピュアピュアなオジサンだった。
オジサンが魔法使い(ネットスラング)になった頃、某大型掲示板にハマったらしく、言動が愉快になりだした。
相変わらず朴訥だったが、だいぶ尖った事を言うようになっていた。
サシで話すと、自慢と自己主張が多い自虐話をするので対処に困った。時々ズレた事を言うので、軽く突っ込むと激しく怒られる。承認欲求とか自己主張とかが強いんだろうな、と思ってた。
オジサンに近年会ったのは法事の席だった。
大型掲示板に短文投稿する業務は休みなく続けているようで、しじゅう端末を弄っていたが、ご両親は老齢で気力も体力も萎え、大魔導士(ネットスラング)の息子に逆らったり意見したりはしない様子。
法要が終わって食事の時、まったく唐突に中韓ヘイト話を始められてびっくりした。何の話をしてるのか?と、周囲は一斉に沈黙。特に楽しい話でもないのに俺のターンとばかりに夢中で語るオジサン。親戚縁者みんな目が泳いで体感温度は一気に下がる宴席。
ピュアピュアなオジサンは空気読んだり3年ROMったりして、大型掲示板脳になってしまったらしい。時代遅れとかスベるとか寒いとか、普通のツッコミのできないイタい人になっていた。突っ込まれないのは正しいからではなく、イタさがハンパないからだ気づいてくれ。
この先、ご両親はさらに沈黙し、田舎の静けさに護られてオジサンは進化し続けるだろう。大魔導士の次は何だろう。ていうか本物の韓国人見たことあるんだろうか?
実家行きたくねえ…
閑散
Twitterを嗜む程度にやっている。
フォロー数の半数程のフォロワーが居り、1日数回のチェックで済む、ゆるく静謐なタイムラインである。
たまにフォローされる。相手が人類なら大抵返す。
昨夏フォローしてきた御婦人は、こちらとは様子の違う、なんというか「達人」的アトモスフィアがあった。
定期的に投稿される定型文を幾つか持っていて、常にタイムライン上に現れる。
タグとかRetweetとか盛んで賑やかしい。
きっと達人ならではの流儀や定型があるのだろうと思い、静観してきた。
だけどだ。
Twitterの奥義を極めていない自分にはピンとこないものがある。ざっくり言うと「面白さが解らない」。
定期ポストの短文を見るたび、この文を面白いと思えぬ自分の未熟さを恥じ、居心地悪く感じていた。
鬱陶しいならフォロー解除してしまえばいいのだが、フォローした相手と一度は相互になったうえで、突然切られたら彼女嘆いちゃったりしないか?不憫がって彼女のフォロワーさん(きっと達人ぞろい)がこっちに攻撃してこないか?と、考えて結局何もせず数ヶ月たった。数ヶ月間ずっとモヤモヤしてた。
ある日。
ついに耐えかねて、定期ポスト文を丸ごと検索してみた。
これがTwitter達人たちの常套句なら類似の文が出るだろう、それらに行き着ければ面白さが解るかも知れない。
新しい世界が見えてくるかもしれない。
期待と不安と「何やってんだ」の混じった気持ちで開いた検索結果。
かの文は彼女しか投稿していない。
類似形も見つからない。
ていうか彼女はマルチアカウントで。
すべてのアカウントで大人数のフォロー+フォロワーが居て。
今更フォロー解除なんてされても痛くも痒くもないであろう事が判明し。
そうなるとスッキリしたもんで、定期ポストがつまんなくても「そのうち解除しよう」と思うにとどめ、こちらを凌駕するTwitter達人を想像して怯えることもなく、我がインターネッツは静かなものである。
おしまい
52円
ハガキは52円ていつの間に。
うかうかしているうちに年末だが、挨拶の賀状が捗らない。書こうと思うと気が重くなる。
自分なんかが賀状を出して、相手に不快な思いをさせないか?かつて迷惑をかけた友人たちは、新年初頭からムカつく奴の名前など見たくないのではないか?という理由ではばかられる。
毎年送ってくれる親戚とか更に気を使う。どんなテンションで御挨拶かましたら良いのか本当に迷う。
下手に名乗って挨拶するよりも、黙して忘れられるのを待ちたい。皆様方の穏やかな生活に波風を立てたくない、せめてもの気遣いでございます、と、52円の白い紙相手に項垂れて大晦日。
クリスマスなんて大嫌いさ、なんて大好きさ
なんでも回数を重ねれば拗れていくということ。そういうの嫌いじゃない。
宗教上のキーパーソンの誕生日に際して、異教徒ながらお祝いする日本人の変遷がいとおしい。
「繁華街で三角帽子を被ってはしゃぐ」
「三角帽子+ケーキが家庭に普及する」
「惣菜屋の揚げ鶏を供するようになる」
この辺で素朴ながら商魂の強さにほほえましくなってくるが、
「恋人たちが奮って食事など楽しむ」
「恋人たちが奮って夜景など楽しむ」
「恋人たちが奮って宿泊
「」
などなど、恋人たちが奮っちゃってる。もうキラキラしてきて誰の誕生日か目が眩んじゃう。何の予定も無いと苦痛すぎてゾンビになるらしい。
一方、住宅街では全力で家に電飾してたりだな。お盆の提灯にゃあそこまで頑張んねえだろ、ていうくらい頑張っちゃう。
ウチの近所は、10年前あたりはスゴかったけど、今は落ち着いてきたようで。子どもたちも軒なみ大人になったからかな。
ちょっと大きめの商店が自社ビルを人力でデコっていた。人力。あくまでプロを介さず自分たちで飾っている感じで。年々増えていく電飾は、あくまで家庭用の域を出てない奥ゆかしさで。この「年々」がじわじわくるわけです。
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各種クリスマスソングの「クリスマス」を「送り盆」とかに言い換えると切なさが増して良いです。
こんな話をしたら「ほんっっっっとクリスマス嫌いなんだね」って言われたので。嫌いじゃないってばよ。